2次的な創造。

 4/20の記事で1次的、2次的創造の話をしたのでその続きです。

 作品を作り手が完成させることを一次的創造だとすると、コンサートの舞台で行われている作品の上演は2次的創造ということになります。2次的創造は与えられた1次的な情報を整理、分析して表現に繋げていくものですが、これには面白さとともに、創造のリスクというものもあります。逸脱しすぎて、時には非難の対象になることも。例えば1980年、第10回ショパンピアノコンクールでは、ユーゴスラビア出身のイーヴォ・ポゴレリチは型破りな演奏をして聴衆を驚かせました。

彼が1自予選を通過したことで、審査員のルイス・ケントナーが辞任。理由は異端的解釈でショパンの作品を穢したことでした。その後3次予選まで進み、本選にポゴレリチが落選したことで審査員のマルタ・アルゲリッチが辞任。こちらはポゴレリチを支持していての辞任でした。「彼こそ天才よ」という発言は有名です。ここまで賛否が激しく分かれてしまうことは極端な例ですが、それも人間的で面白いなと。はみ出る方向性、その時代の性格や権威的な問題などで評価は変わってしまいますが、ポゴレリチの演奏は、それが小さく身勝手な自我から生まれたものではなく、大きな人間性と教養に裏打ちされているから今なお残っているのではないかと思います。現在はショパンコンクールに出場した時と大分演奏スタイルが変わってしまいましたが、それでも彼の音楽として心に響くものがあります。4年前に聴いたショパンの後期ノクターンなどは忘れられません。

 クラシックのコンサートで時々出会いますが、プロフェッショナルと呼ばれる人の演奏が退屈に感じる時があります。良い演奏者であるはずなのに、どこかで聴いたような演奏が聴こえる。ストイックな世界に生きる演奏家としては時には型にはまっている方が安全な場合もあるのでしょうが。アマチュアや子どもの方が粋な演奏を聴かせてくれることしばしば。

 今はインターネットを中心にあらゆるメディアの情報が氾濫しすぎている時代で、整理、分析また表現までも外部の情報に頼ってしまい、結果舞台には画一的なものが並んでしまうということも起こっているのではないでしょうか。つまりは2次的創造を借りてきているということです。学びというものは「まねび」から来ていると言われているとおり、模倣から入ることを完全に否定している訳ではありません。未知なるものを未知から始める前にお手本を聴いて、地を固めることは学習の道筋として、一つの正しいあり方だと思います。しかしプロが舞台にそれを持ってくるかどうかはまた別の話です。演奏者がどのCDを聴いてきたか分かってしまうくらいの舞台をされると、どうも残念な気分になるのです。そこには人柄が見えて来ない。個性的である事が絶対ではありませんが、表現者としては自らの責任でもって2時的創造をせねばと思うところであります。

1次情報の整理というところでは、芸術芸能に限らず情報がすぐに手に入る時代だからこそ気をつけなければならいところがあるでしょう。今回は自分への戒めも込めて。